「なんでここが簡素なんだ…」
新しいラブドールが出るやいなや早速写真を見るとやはり萎える。
その繰り返し。
新しいラブドールが出てはその繰り返し。
とにかくラブドールのメーカーたちはこの重要な部分を忘れている。
「生々しいシワだ」
「簡素だと人形感覚に拍車が掛かる」
人間にシワなど無くていい。
あると老けて見える。
むしろ人形になりたいくらいにシワなどなくていい。
とにかくそちらのほうが清潔感がある。
人形みたいな体ならばいつだってスキンケアなどせず風俗に行ける。
いつだって、どこだって、人にみせられる。
しかし、
「当の本人、人形にとっては違う。」
「人形は生々しいシワを欲している」
すでに人間が憧れる人形になっている。
しかし、人形を突き詰めて脇のシワや関節のシワを簡素にしすぎるとあることが起きる。
「これは人形だ」という感覚に拍車が掛かること。
「これはモノだ」という感覚に拍車が掛かること。
「これはオナホだ」という感覚に拍車が掛かること。
しかし、人形にとって求めるものは人間と違う。
人形になりたいんじゃない。
「人間になりたいんだ」
「人形に生々しいシワを入れるメーカーは神だ」
「神は生命を生み出す」そのような物語を人間は考えた。
しかし、その物語のようなことがラブドールにおいて現実に起こる。
「人形に命を宿す」これだ。
しかし、声機能を搭載しても目を動かす機能を搭載しても口を動かす機能を搭載してもおっぱいをいくら柔らかくしても無駄だ。
忘れている。最も重要な部分を。
「生々しいシワだ」
ボディ全体に「あたかも生活しているような生活ジワ」を施していく。
その瞬間、ラブドールに生きた感覚が宿される。
写真の中だけではない。
実際に目の前にした瞬間に生き物を目の前にしている感覚がよぎる。
実際にセックスしている時に人間とセックスしている感覚に陥る。
「ラブドールに命を吹き込むラブドールメーカーは実際にラブドールと愛し合ったことのあるメーカーだ。」
そう断言できる。
作っているのは人形ではない。
作っているのは生き物だ。
人間と同じ次元にいるような未確認の生き物だ。
他の惑星に生きている人間のような生き物だ。
「もう人形など要らない。」
迎え入れるのはただひとり。
「それまで普段の生活をしていたとある1人だ」
「新しく作られた1人ではない」
迎え入れるのは人形ではない。
迎え入れるのは生き物だ。
人間と同じ次元いいるような魅力的な生き物だ。
他の惑星に生きている人間のような生き物だ。
もう惑わされない。
もう人形など要らない。
もう騙されない。
これからはキッチリと見分けられる。
「シワのないドールがいくら写真の中で生き物を装ってきても無駄だ」
そして自力で真の存在を迎え入れられる。
「飾っていない“生々しいシワのある”生きた存在を。」