今までエロ漫画は途中で読むのを中断してオナニーして抜いていた。しかし、その日常が自身の生活から無くなっていった。程よい勃起で終始し、時々ガッチガチに勃起したとしても抜かずに終わる。読書で始まり、読書で終わるようになる。まさに成人漫画のもう1つの真髄を味わえてしまう。
オナニー目的で開かなくなる
コンビニで買ったエロ漫画(成人漫画)やエロ雑誌は当然オナニー目的で手にしていた。そのため、オナニーする気でないときは開きさえしなかった。
しかし、性の悩みに振り回される状態が終わった日常ではオナニー目的以外でも開くようになった。
会話のやり取りのシーンを楽しんだり、そのキャラクターに感情移入したり、もう1つの純粋さとして“漫画”としても楽しめるようになってしまった。
ゴリゴリのエロ漫画をいちご100%のノリ感覚で熟読できるようになってしまった。
買って抜きまくって押し入れに眠っていたエロ漫画やエロ雑誌が再び新たな視点で蘇る。再び現役になる。再び押入れから取り出すことになる。そう痛感した。
また、“ラブドールとのセックスの体位の参考”としても楽しむ瞬間も有る。中学生の頃に保健体育の教師が「エロ本は勉強のために読む」と豪語していたのに対して内心、
「本当は抜きたくて買ったのでは?それならばそう正直に言ってしまえば…。保健体育の先生だという肩書きを利用してまで…。」
とアニメのひねくれキャラクターの如く思った瞬間もあった。
しかし、それは愚かであった。“本当に”その教師の方は勉強用に購入していたのだ。性の悩みから開放されてやっと、その返答が「身の保全のための発言」ではなく「純粋な発言」だということを知ることもできてしまった。「あの発言は本当だったんだ!」そう納得がいってしまった。
抜きシーンまで飛ばさなくなる
それまでエロ漫画はパラパラとめくって抜けるページを探していた。「抜けるページが無くなったらもう押入れ行き!」といったスタイルになってしまっていた。
結局、オナニー目的でしか手にしていなかった。
しかし、エロ漫画雑誌を熟読するようになって、以前に抜きシーンばかり飛ばし飛ばし読んでいたので意外に読んでいなかった箇所もあって新鮮な感覚さえも味わえてしまう。
漫画家が描いているシーン1つ1つを楽しめるようになる
漫画家の方が「なぜこのセリフにしたのか」「なぜこの体位にしたのか」「なぜ巨乳にしたのか」「なぜ筋肉質にしたのか」「なぜこのコスプレにしたのか」そのようなことも考察してしまうようになった。
漫画家の方が1コマ1コマ時間を掛けて描いてもサラッと数秒で読み飛ばされてしまう現実、その現実とは裏腹に、1コマ1コマを味わうようにページに穴が空くように1つの雑誌を何回も何回も楽しめる。
二次的なメリットとして、新しいエロ雑誌をやエロ漫画を買うことが大幅に無くなり、節約できるようにもなった。それを何度も体験した。
“抜けるシーン”を見ても勃起しなくなる。ムラムラしなくなる
そして抜けるシーンだけをいきなり見ても勃起しなくなってしまった。ムラムラしなくなってしまった。
「そのシーンに至るまでの会話や経緯がいかに大事か」にこだわるようになってしまった。そのシーンの遷移に楽しみを見出すようになってしまう。
「長時間AVのようにショートカットされるようにいきなりセックスシーンに切り替わる漫画」は純粋に漫画熟読としては楽しめなくなってしまった。
一方、ダラダラとやたらセックスまでが長い漫画は”今までそのような漫画はすっ飛ばしていたのに”今ではそのような長いエロ漫画も楽しめるようになってしまった。
性の悩みに依存する状態から脱出することで”ライトな”エロマンガでさえもさらに深く楽しめるようになってしまう。
エロ漫画さえも性的だけでなく新たな視点で楽しめるようになる。