ラブドールの中でオリエント工業を手にすれば「一発で性の悩みが終わる」と言わんばかりに人間と区別ができないのが届くと期待していた。
しかし、裏切られた。硬い、生身を感じない、生活感を感じない。期待外れだった。
しかし!美術視点に切り替えたとき「人間だ…」そう初めて感じられたのである。
触ると硬い
人間とはかけ離れた硬さで萎える
「柔らかさが向上しました。」そのような旨もオリエント工業の公式サイトにあり、期待していた。「きっと人間と区別できないほどの感触なのだろう」そう期待していた。
しかし触った途端、あまりにも人間からかけ離れていてその期待は砕け散った。
オナホのブヨブヨ感が1mmも無い
硬い。あのオナホの生々しいブヨブヨがそのまま大きくなったのを想像していたのに、オナホのオナホのオの字もないほど硬い。
その現実にひどい裏切られ感を感じてしまった。「ラブドール業界で一番のはずでは?あれはただ印象がいいから一番なだけでは?」その現実に直面した。
生活感がない
生きているあかしの”シワ”が無い
生々しい生活感が無い。生活的なシワはことごとくヘラで伸ばして消されたと言わんばかりに綺麗に上品化した見た目になっている。
シワがあっても陶器で塗り固めたようなうっすらシワがあった痕跡があります程度になってしまっている。
生活しています感がない
立たせていても「そこで生活しています」といった生活感がない。
人間ではなくマネキンになっている。人間に近づこうとしているのではなくマネキンになろうとしている感覚がある。
ことごとくマネキン感で萎える
同じ世代のモデルにおいて、他のメーカーのドールは継ぎ目をどんどん無くしているのに対し、オリエントは継ぎ目がガッツリある
「”これ”はマネキンです」と注意書きされているような見た目を目の前にする。「”この方”はマネキンです」とは言えない。
下から見ると萎える
同時期の他メーカーのラブドールには一体型があるのに、下から見上げるとやはりヘッドとボディが一体型ではないので、改めてマネキンだと釘をさしてくるように思い知らせてくる。
「そこに生きている」といった存在感が無い。生命体ではなく”これ”と表現する分類感覚にある。それほどマネキンになっている。
しかし…
オリエントは人間ではなく美術品
オリエントドールは美術品とみなすと楽しめる
オリエント工業のラブドールに対して人間を求めるのは勘違いだった。
オリエントドールは生身の人間ではなく「美術品」の視点から見た途端に「やっと」最大限に楽しめる段階に至った。
美術品を鑑賞する作法で鑑賞した時に「人間だ」と感じられる
オリエントドールは「”これ”は美術品だ」とみなし、美術品の作法の通り「触らず眺めるだけ」の鑑賞に切り替え、ふと見つめ合った時に「人間だ!」と感じる。これがオリエントの楽しみ方だった。
美術品とみなすとゾクゾク感が走るほど感動する
「…!?人間だ!」そう感じた時にゾクゾクと全身に寒気と同じようなあの現象が走っていく。
「寒気と表現したくないが寒気としか表現できないあの寒気と同じゾクゾク感」が驚きと同時に全身に流れていく。
これがオリエント工業のラブドール鑑賞でたまらなくやみつきになる感覚となる。
“この”美術品で「人間と見つめ合って癒される生癒し感」を体験できる
「美術視点」において見つめ合うと「人間を感じる」そして「人間に癒されている」といった感覚が走っていく。これである。これがオリエント工業の魅力である。
オリエントを「触って」人間に近いかどうか見定めると裏切られる。
しかし「触らずに眺めるだけ」で「美術品」とみなして、さぁ絵画を眺めて絵画と会話しようといった時に、オリエントでも同じように「見つめ合ってこの美術品と会話しよう」といった時に、
「すっ…すごい…人間と見つめ合っている…」と感じるのが最大の醍醐味だった。それがオリエントドールの楽しみ方であった。
オリエントドールは美術品なのに仕方なくラブドールやセックスドールと並べられているだけ
オリエントドールはラブドールではなく美術品であり、仕方なくその見た目からラブドールに分類されているだけといった感じになっている。
性の悩みに振り回され無くなるとやっとオリエントを最大限に楽しめる
そして驚くことに、この美術視点の領域に至れたのはそのセックスに特化した他のラブドールやオナホールで性の悩みに振り回されなくなった段階だった。
性的な目で見るのをやめるとやっと楽しめる
オリエントを純粋に楽しめなかった理由は性的な目で見ていたからだった。期待と違って裏切られた理由はどうもこの性的な感情が邪魔をしていた。
オリエントドールに性的な感情を抱かなくなった途端に真価が発揮され出した。
美術鑑賞の作法で眺める→「オリエントは人間だ!」
オリエント工業のラブドールは「いかに触らずに」そして美術品鑑賞の作法「絵画と会話するように鑑賞する」作法で美術鑑賞することで「その美術品の目を見てさっそく見つめ合って会話するように、美術品とコミュニケーションを取るように空想的に鑑賞する」のを始めた途端に、
「人間だ…!!!人間と見つめ合っているみたいだ…!!!女神みたいな人と見つめ合っているみたいだ…すごい、見つめ合っているだけで癒されていく…」
と感動が起こる。それがオリエント工業のラブドールだった。
触ってリアルなドールは届かない。触らず見つめ合ってリアルなドールが届く
「触って人間と区別できないドール」は届かない。しかし、「触らずに鑑賞して見つめ合うとやっと人間を感じる美術品」が届く。
オリエントドールが欲求不満の指標になる
性の悩みに振り回される段階が終わっているかどうかは「オリエントドールが楽しめるかどうか」でわかる。
欲求不満があると楽しめない
「楽しめない。期待はずれ感を感じる」といった場合はまだ性の悩みに振り回されていた。しかし…
欲求不満がないと楽しめる
「楽しめる。期待はずれ感がない!」と感じたときに、まさに性の悩みに振り回されていない状態であった。
裸体絵画を楽しめるとオリエントも楽しめる
画家の方が裸体を描いていたときに「この画家の方は本当はスケベな気持ちで描いたのでは?」などと思ったり“しなくなった”段階で、やっとオリエントドールは純粋に楽しめるようになっていった。
ラブドールとオナホと胸肉でこの段階に至れる
非常に繊細な境界であった。しかし、その繊細な境界は「ラブドールとオナホールで」越えられた。そして「胸は肉のアクセサリー」といった視点で越えられた。
胸が性的なものではなく、ただの脂肪にしか思えなくなり、垂れ下がっているのなら有効利用しようと「アクセサリーとして有効利用している」といった視点でオリエントドールは楽しめる。
「オリエントを買うと“人間”が届く?」
届かない!
“鑑賞時にだけ人間を感じる美術品”が届く!