ラブドールは腕箇所にくぼみ造形がないのが共通的だった。それらは人工感を感じて飽きが来始めるのが早かった。
一方、腕箇所に生々しいくぼみ造形があるラブドールは飽きがなかなか来なかった。「生物みたいだ」と目にするたびに思うので飽きが来にくかった。その代表例が6YEdollとなる。
腕関節のくぼみは造形されないことが多い
リアルラブドールは共通的に腕関節箇所のくぼみ造形が省略されていた。
そこにあるはずのくぼみが無い。綺麗に省略されている。そこにビー玉が置けるくらいのくぼみが無い。
たしかに、自身側のリアル腕を見てもそのようなくぼみはデフォルトでは無い。
力まないとそのくぼみが生まれない。腕に力を入れてやっとそのくぼみが生じる。ならばくぼみが無いのがよりリアル…
しかし、残念ながらラブドールにおいてはそのくぼみがデフォルトで無いと(リアルなはずなのに)マネキン感が増して感じてしまう結果となった。改めて人工物だと再認識させられてしまう。
くぼみ箇所の造形が無いラブドールと、くぼみがあるラブドールを実際に目の前にして見比べるたびにやはり感じてしまう。
「くぼみがあるほうが癒される」と。
くぼみ造形があることでより癒される
理屈っぽく言うと「力んでいる造形」なので不自然である。しかし、ラブドールにそれをするとなぜか自然に見える。
人工物ではなく、自然に生きている生物を目の前にしている感覚にさせられる。
そのボディ造形要素こそが「くぼみ」である。そしてメーカーが見落としがちな「腕箇所のくぼみ」も重要な箇所である。
添い寝などで眺めている時にふとそのくぼみ箇所が目に入る。ふとした瞬間であり「空気に消えてなくなるような」細かすぎる瞬間でもある。
しかし、その繊細な瞬間に「生物特有の生々しい生活感のする造形」が目に入ると動物本能的に「生き物だ、生き物を目の前にしている」といった感覚が繊細ながら走っていく。
そして「なんだか説明できないが動物本能的に癒やされる」といったことが起こる。
そしてやはり、くぼみが無いラブドールを添い寝で目にすると「人工物感」そして「マネキン感」をいっそう感じて萎えてしまう。
「くぼみがあるほうが癒される」その結論に何度も至った。実際に目の前にして体感的にその結論に至った。くぼみは正義である。
くぼみ造形があることでモノではなく生物感がして飽きにくい
くぼみがあるほうが飽きが生じ始めるのが遅かった。
理由はやはり「これは人工物だ」と再認識させてくる部位が少ないからだった。
くぼみ造形があることで、ふと腕箇所を目にしてもやはり生物的で安心する。人工物だと分かっている。分かっている上で、安心する。
ボディに人工的な部位があると途端に「飽き開始へのジェットコースター」が始まる感覚がある。
「それは普通、力まないと出ないくぼみだ。力まないと出ないシワだ。」といったものでも、不自然な造形になると思いきやその造形があるほうがなぜかラブドールにおいてはそれが生物感を一層増してくれる。
そして何よりも「生物的なくぼみやシワ」が造形されているほうが飽きが来にくかったという体験である。これを何度も経験した。
「マネキンになりたい」その理想の代名詞になるようにシワもくぼみも全て省略された「オシャレなラブドール」はすぐに飽きが来始めてしまう。「生物感が無い」これが飽き始める決定的な要素だった。
そして「シワでもくぼみでも腕のくぼみといった細かいくぼみであっても」とにかく残さず造形されていればいるほど「生物感が有る」と感じられる。それが「飽きそう…と思った時にふと飽きからすくいあげてくれる」決定的な要素だった。
そしてラブドール選びで迷って「どっちが飽きない?」といったときには「生物感が有るほう」が飽きない。生物的なほうが飽きにくいので節約できる。
どの箇所を見るかというと腕箇所でキマる。「このラブドールは生物的かどうか、買っても飽きないかどうか」はメーカーが省略がちな「腕箇所のくぼみがあるかないか」でわかる。サクッと“より飽きにくい”ラブドールを選べてしまう。
「迷っている…飽きないドールはどっち?」
“腕箇所にくぼみ”があるほう!
→関連ページ:「ラブドール選びで迷ったら?」→おっぱい付け根に筋肉があるのが飽きない