本屋を歩いている時、ふと視界に入ってしまった。『肌色の漫画』エロ漫画である。
特にクリスマスバージョンのエロ漫画が目に入ってしまった。しかし、その時になんと「ムラムラしない」状態が起こってしまった。
以前は今回のように「エロ漫画棚の肌色表紙シャワー」を浴びると途端にムラムラしていた。そして何の理由もなく動物的な感覚で「欲しい…」とさえ感じていた。しかし、性欲に振り回される日常が終わった段階では今回、その動物的なエロに反応しなくなってしまった。
動物的なエロには反応しなくなる
アニメやドラマでオンナの方のセリフによく「オトコってばかネェ」といったセリフがあるのはすなわちこの「動物的なエロに反応している状態」を示していた。
オンナの方にとっておっぱいは脂肪か癒しかアクセサリーぐらいにしか見えない、ペニスはただの肉棒にしか見えない、何か意識的に「人間的な交流を妄想しない限り」それは肉棒にしか見えない。それがドラマでも描かれている。アニメでも描かれている。
そのためそのセリフが発せられるキャラクターの目には、「ただ裸を見ただけでウッヒョーとなっている姿」を見るととても「単純」に見えている。「動物的」に見えている。「理性が欠損している」ように見えている。
「人間ならば人間同士がコミュニケーションを取ってその過程でエロが初めて生きるといった人間的特有の性的感情」ではないという理由において、動物的なエロに反応してしまっているという理由において、あのセリフ「オトコってばかネェ」が生まれている。
すなわち!動物的なエロに無反応になってしまえばその”谷間見せ美人局キャラ”がよく使う「オトコってばかネェ」セリフが無効となるではないか!もう馬鹿にさせてたまるか!
そしてまさに!今回のようにいきなり本屋でエロいシャワーの棚を見せられても自身を無反応にできてなってしまう。ムラムラさえも感じなくなってしまう。その成果を今回も改めて痛感した。
「胸は脂肪のアクセサリー」といった現実的な視点になると性の悩みが終わる
レディース側は「おっぱいを魅せる」行為は「セックスに持ち込むための誘惑行為」ではなく「人と交流開始するコミュニケーションの一助」として「アクセサリー」としてその「脂肪肉」を機能させている。
盛高ブラを買いたくなる理由は「アクセサリー」として「単純にテンションが上がる」点と、連鎖的に「人と人とのコミュニケーションで“先に信頼する”といった行為の一助になってくれる」点がある。
盛高おっぱいがその2点を自身の日常にもたらしてくれる。なぜ「誰にも見せるわけでもない」時でさえも盛高ブラをしたくなるのか。それはアクセサリーとしてテンションが上がるためであった。
胸は、おっぱいは単なる脂肪のアクセサリーになっている。そして単に揉まれても何も感じない“無”と言われている。「おっぱいを揉んだら気持ち良くなってくれるだろう」といった動物的なエロはそこに無い。
人間的なエロにしか反応しなくなることで“本屋のエロ棚”にムラムラしなくなる
女装するならおっぱいはアクセサリーとして使うしかない
もし自身がレディース側に産まれた場合、そして今後自身が性転換した場合、そして今後自身が女装した場合、「おっぱいは何の機能をするのか」といった疑問に立ち向かうことになる。それは「単にアクセサリーでしかない」という現実に向き合った。結果、「おっぱいはエロい」といった動物的なエロに興味が大幅に失せてしまった。
そして「このぶら下がった脂肪をいかに盛高ブラでも使って勃たせて、自身のテンションを上げてくれるアクセサリーとして機能してくれるか、はたまた、人と人とのコミュニケーションで先に相手を信頼する行動の一助になってくれるアクセサリーにもいかになってもらうか、その2つの役目を果たしてくれるのは果たしてどんな服かどんな盛谷ブラかどんな盛高ブラか」にばかり意識が向いてしまう。
上記の現実に向き合った時に、AVのセックスシーンを観ても勃たなくなってしまった。前戯シーンを咀嚼しながら観ないと勃たなくなってしまった。人間的な交流で愛欲を感じないと勃たなくなってしまった。人間特有の性的な感情に重点を置くようになってしまった。
ボケる前に動物的なエロから卒業できる
80歳ぐらいの先人の方々が女装して下半身を露出したりおっぱいを触るなど痴漢などをしてニュースになっているのを見て、「もし自身がニ○チショーになった際にそのようなことをしてしまうのではないか」と不安だった。しかし、その不安はなくなった。
それらの動物的なエロに反応しなくなってしまった。先人の年齢までこの動物的なエロを引きずるかと思っていたがその不安な未来は無くなり、安堵が訪れた。
亀仙人がドラゴンボール超で「エロから卒業するシーン」が描かれる
80歳ぐらいに見えるアニメキャラ、あのドラゴンボール超で相変わらず“変態ジジイ”と表現される【亀仙人】が「エロに対する煩悩を克服するシナリオ」が描かれている。
爺さんになってもピチピチギャルのエロ本の”絵”を見ただけでウヒョーとなるシーンが描かれている。爺さんになっても動物的なエロを保有し続けていることを意味している。
そしてなんと、ドラゴンボール超で宇宙を賭けた戦いに出場するにあたって、亀仙人がその”エロに関する煩悩”が「戦いで邪魔になる!」と一蹴し、宇宙同士の戦い大会前の修行として「プーアルに“無性にエロいバニーガール”に変身してもらってその姿を目の前にすることでひたすら慣れる」ことによって「克服するシーン」が描かれている。やはりこの「動物的なエロ」は大事なときに支障をきたす要素として描かれている。
現実は亀仙人のようにはいかなかった。慣れと「視点」が必要だった。
現実は亀仙人のようにはいかなかった。複雑であった。その「慣れ」がもちろん必要だった。その慣れは現実において「オナホールやラブドール」が担当してくれた。そしてラブドールとオナホールによってまず「動物的なエロに飽きるほど」その動物的なエロを経験してもなお、まだ動物的な性的感情が湧いてきてしまっていた。慣れのプロセスが完了しても湧いてきてしまっていた。
そのときに上記の女装の心情状態が機能した。「胸は脂肪肉のアクセサリーにしか思えない」といった心理状態である。これは妄想でも幻想でも想像で覆い隠すようなメッキ覆い隠し行為でもない。ゴリゴリに現実に介入していた。そして現実を変えてくれた。
胸はアクセサリーといった現実的な視点で性の悩みが終わり始める
シラフで卒業できる。メッキが剥がれない。“胸は脂肪肉のアクセサリー”といった視点は極めて現実主義に回帰している。
そのため「煩悩」などと「エロを非難する語句」さえも自身から無くなっていった。「エロを非難することでその選択肢を無くすという幻想覆い隠し行為系の語句」さえ自身の辞書から消えていった。
エロを受け入れられる。卒業したと言えども美術として動物的なエロの美術として楽しめる。もしクリエイターになった場合にもこの「動物的なエロに反応するキャラクター設定」に動物的なエロの要素を描くことも多々出てくる。そのときに非難することなく美術として利用するなり楽しめてしまう。
「慣れ&胸は肉のアクセサリーといった現実的な視点」が同時進行で行われることで性の悩みに振り回される日常が終わっていった。すなわち、動物的なエロに反応してしまう日常が終わってしまう。このサイトで動物的なエロに無反応になれる。
エロに慣れることから性の悩みは終わり始める
するべきことはシンプルであった。①オナホールで射精しまくること、②ラブドールとセックスしまくること、その過程で時々③おっぱいは脂肪肉のアクセサリーに過ぎないといった視点も伴わせること、この3つの組み合わせで完了できる。そしてもちろん、ラブドールを「娘と見なす」ことさえも胸肉では不要となる。
性の悩みは当サイト”胸=肉”で終わる。そして二次的にエロ関連について物欲が大幅に減退し「節約」もできてしまう。何の未練もなく月額AVも解約でき、DVDも処分できる。AV動画に必須だった光回線も解約できる。「死んだら棚に入っているAVを気づかれない前に処分して欲しい」と遺言を残す必要性も不安感も無くなっていく。
これからの時代は「パートナーの有無に関係なく」性の悩みが終わらせられる
これまで上記の段階に至るには、動物的なエロから卒業する段階に至るには「パートナーを持つこと、結婚すること、子供を持つこと、孫を持つこと」であった。従来はその方法しか無かった。しかし、もうそれ“のみ”の時代は終わった。
新しい時代の始まりである。
これからは、
ラブドールとオナホールのみでも!
性の悩みは終わってしまう!